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聖子さん日記2001

 

 

2001年12月31日(月)

 「After Blue」

 この年末、私は、独りぼっちで過ごしている。妻と子供は実家に帰らせた。例年なら、私も妻の実家を訪れたり、自分の実家に家族を連れていったりするのだが、今年はやらない。正月も独りきりの予定だ。

 今年の離婚裁判のおかげで、私の親戚の人間関係はメチャメチャになってしまった。もう、どこにも顔を出せない。無理して顔を出したら、どうせいろいろトラブルが起こるに決まっている。そうなると、私のうつ病が悪化するのが心配だ。これ以上悪くなると私は会社に行けなくなり、家族は路頭に迷うだろう。

 今はただ、1月5日のライブだけを楽しみにしている。聖子さんに会える。オフ会でネットの仲間たちと会える。ライブ開催の知らせが入るまでは、正直、正月に決意を固めて自殺しようかと思っていた。聖子さんは私の命を救ってくれたのかもしれない。

 私の心境は、「After Blue」のようだ。年末年始の楽しい季節のはずなのに、去年まであった自分の本当に愛しかった人間関係を全て失って、呆然自失になっている。1月5日のライブという「気のいい仲間のパーティー」に紛れ込もうとしている。でも、立ち止まると、私の心の中には冷たい雪が降り続いている。

 1月5日、聖子さんの姿を見届けたなら、私は聖子さんに手紙を書くつもりだ。

 「聖子さんのいるかぎり、私は絶対自殺しません」

 

みなさまへのお礼

  この文章を読んでいただいているみなさん、20000回ものアンコールありがとうございました。みなさんのご支持のおかげで、なんとか今年一年を乗り切ることができました。来年は、心身ともに立ち直り、しっかりと自分の家族を支え、聖子さんを応援していけるようになりたいと思います。今後も変わらぬご支援をよろしくお願いします。来年こそは聖子さんの完全復活を目指しましょう。

 

2001年12月24日(月)

 「最高のクリスマスプレゼント」

 聖子さん、馬場さんライブにゲスト出演決定!この日をどれだけ待ちわびただろう。ちなみに、このニュースの第一報は、私ではない。本人の希望により名を明かさないが、みんなその人に感謝してほしい。

 このことをホームページで公開するか、実は迷った。公開してしまうと、狭い会場に人が殺到して、自分が会場に入れなくなる可能性があるからだ。名古屋から出かけて参加できませんでしたでは、しゃれにならない。

 それでも、こういうサイトをやっている以上、隠しておくわけにはいかない。必ずあとでバレて、佐藤聖子ファン全員から裏切り者呼ばわりされるのは明白だ。いや、こっそり参加して、あとで「へえー。ライブがあったんですか。知りませんでしたよ。」と、とぼける手もあるな。

 でも、やっぱり、公開することにした。ねらいは佐藤聖子フルハウス伝説の復活。チケットソールドアウトを続けていたころの聖子さんに戻ってほしい。そのために、まず、マローネを佐藤聖子ファンで埋め尽くす。初ライブの時のように出入り口のドアが閉まらなくなるまで満杯にする。それが、佐藤聖子の新しい出発にふさわしい。

 

2001年12月19日(水)

 「フォーライフレコード解散」

 昨日、ニュースが流れたとおり、フォーライフレコードが解散した。幸い会社の負債などを清算するだけで、従業員やアーチストたちは全員、新会社で再出発を図るという。まずは、一安心だ。

 聖子さんとフォーライフとの関係は、もうとっくに切れていることだろうから、直接、聖子さんに影響があるわけではない。聖子さんのCDが廃盤になるのか心配だが、ひととおり買い揃えてある私には差し迫った話ではない。

 でも、やはり感慨がある。歌手佐藤聖子を見つけ出したのはフォーライフ。6枚ものアルバム、13枚ものシングルを送り出したのもフォーライフ。フォーライフがなかったら、私たちは佐藤聖子という歌手にめぐり合えなかった。フォーライフレコードの方々には、めいいっぱい感謝したい。そして再出発を応援したい。(さしあたり椎名法子さんのCDを買うのがいいかもしれない)

 聖子さんはフォーライフという会社の利益には、あまり貢献できなかったのかもしれない。でも、普通の会社の場合でも、そんなものだ。研究開発などは、製品が完成できるかわからない。完成しても競争に打ち勝って利益になるかどうかわからない。業種によっては、研究開発テーマのほとんどがハズレという場合もある。それでも、そこに働いている人は、みんな誇りをもっている。自分たちの地道な仕事が、会社の技術の底力を蓄え、製品を生み出す土壌を作っていると感じているからだ。

 聖子さんもフォーライフに対して、申し訳なく思う必要は、さらさらない。それよりも、フォーライフは、単なる過去の通過点だと思って、一刻も早く、新しい道を歩き始めよう。

 

2001年12月14日(金)

 「Windy」

 今日は、朝から元気だった。しっかり聖子さんの歌も聴けた。ひさびさに少しテンションが高い。

 そこで、ちょっとうわついた話をしてしまうのだが、私の知ってる女性で、ここ2〜3年で彼氏を4回変えた人がいる。その女性は、美人というほどではないが、男好きのするタイプ。私が最近ネット上でひいきにしている美形のりうさんによく顔が似ている。

 なんでそんなに次々と恋人を変えられるのか不思議だ。ほんとに一晩寝たら、夢が醒めるように心が離れてしまうものだろうか。遊びならともかく、本気の恋をそんなに頻繁にするなんて、粘着質な性格の私には理解できない。Windyって実在するんだ。もっとすごい人もきっといるんだろう。

 私の妻も、私と出会う前は、相当、男出入りが激しかったようだ。詳しくは話してくれないのだが、男性経験は豊富そうだ。でも、すぐにどんどん別れてしまったらしい。一番長く付き合った人で3ヶ月くらいだそうだ。そんな女が、なんで私のところに押しかけ女房で来たのか、まったくわからない。私はWindyという、謎の存在に魅入られてしまった不幸な男であるらしい。

 

2001年12月13日(木)

 「聖子さんの歌が聴けない」

 私は、毎日聖子さんの歌を欠かさず聴きながら通勤している。先月は英語の勉強をしようと思い、英語放送のテープなどを聞いていたが、心が落ち着かないのでやめた。私にとって聖子さんの歌を聴いている時間は、心安らぐ貴重な時間、生活に不可欠な時間だと思っている。

 月曜日の夜から、急に気が重くなり、夜眠れなくなり、火曜日は会社を休んでしまった。ずっと家で寝込んでいた。水曜日になって、すこし気分が回復し、出勤しようとした。車に乗り込んで、エンジンをかけると、いつもの聖子さんの歌声が聴こえてきた。

 その瞬間、とてもいやな気分がした。大好きなはずの聖子さんの歌声なのに。思わずカーステレオのスイッチを消してしまった。理由はわからない。神経が疲れていたとしか言いようがない。

 今日の朝も、また聖子さんの歌が聴けなかった。私の心は、もう聖子さんの歌声も届かない、暗い闇の底に落ち込んでしまったのだろうか。もう聖子さんの救いは受けられないのだろうか。明日の朝も聖子さんの歌が聴けなかったら、きっと私の人生は、ずるずると沈んでいくばかりになりそうな気がする。

 

2001年12月10日(月)

 「冬に咲く花」

 私も、もういい歳になった。恋愛などは遠い昔の話になった。聖子さんのこの歌も青春のヒトコマだったのかな、と思っていた。

 今年、離婚裁判をやって、私は愛する人との別れに直面した。夫婦だといっても、いつか別れの時がやってくることがよくわかった。少なくても、元気で明るかった妻には、もう一生逢えないだろう。

 私は、今年あった諸々の衝撃から、しばらく立ち直れそうにない。先週、会社の健康診断があり、私は心身ともに衰弱しているので、残業一切禁止の宣告を受けた。当分、会社の第一線から退いて、休養気味に日々の生活を送ることになりそうだ。

 こんなときは、どのような心がけで過ごせばいいのだろうか。それは、この歌が教えてくれる。窓辺に植物を飾り、日々の手入れをして、ただ静かに花が咲くのを待つ。そんなような気持ちで毎日を過ごしたい。そうすれば、白い息を吐く頃には、きっと健やかな気持ちになれるのかもしれない。

 そうだ。久しぶりに聖子さんに手紙でも書いてみようか。

 

2001年11月28日(水)

 「グリフィス天文台」

 「地上のShooting Star」に出てくる「星の降る丘」は、ロサンゼルスの郊外の山頂にあるグリフィス天文台だ。

 94年9月、私は出張でロサンゼルスに行く機会があった。観光スポットはどこも行く余裕がなかったけれど、どうしてもグリフィス天文台だけには行きたいと思い、夜になってから山道を車で登った。天文台は意外に小さいけれど威厳のある建物だった。夜の闇に紛れて、たくさんの人があたりにいた。やがて、展望台のようなところに出ると、一面に街の夜景が広がっていた。歌われているような「輝く街」ではなかった。光の線が平面にわあっと広がっていた。空を見上げると、普通の夜空なんだが、遠くに見える低い山を越えて、さらに広がっていた。この天と地の広がりを見て、私は今、別世界アメリカに来ているんだと実感した。きっと聖子さんも、私と同じようなことを感じて曲を作ったに違いない。すばらしい景色の別世界の丘=恋愛が成就した夢の世界、といったふうに曲をまとめて。

 聖子さんが、夜景を見たとき心の中にあったことは、これからの希望に満ちた歌手生活のこと、そして、もしかしたら恋のこと。私も、夜景を見たときは、結婚を2ヶ月後に控え、新しい生活に胸を躍らせていた。

 あれから7年、聖子さんは歌手活動を休業し、私の夢見ていた幸せな家庭はめちゃくちゃになってしまった。でも「地上のShooting Star」を聴くと、あの時見た別世界の景色、希望に満ちていたあのころの心を思い出す。あのころの心を思い出すことによって、私は今ようやく毎日を生きている。

 きっと聖子さんの心の中にも、グリフィス天文台の夜景が、今でも焼きついているに違いない。

 

2001年11月27日(火)

 「地上のShooting Star」

 今日この歌を聴いていて新婚旅行に行ったときのことを思い出した。

 私が新婚旅行に行ったのは7年前の11月の下旬。少し寒かったが、心はうきうきして暖かかった。結婚式場からタクシーに乗って名古屋駅に行った。本当はリムジンに乗りたかったのだが、タクシー会社に問い合わせても「そんなものはありません」という返事。

 ふたりで行く旅行は初めてだった。やがて私たちは見知らぬ外国を、地図だけを頼りに歩き回った。今までは本の中でしか見たことのなかった、夢のような景色を実際に見て感動した。

 あのときの妻は本当に美しく、優しかった。うれしそうだった妻の顔を決して忘れない。私は、これからずっと、あのときの幸せを心の糧にして、苦しくてつらい人生を生きていくのだろう。

 そう、それは地上のShooting Star、流れ星のように美しくはかない思い出。

 今日もまた流れ星の話になってしまった。

 

2001年11月23日(金)

 「星よ流れて」

 私の妻は、流れ星を見たことがないと言う。いつか妻に美しい流星を見せてあげたいと思っていた。

 この前のしし座流星群の時に、妻を夜中に起こして見せてあげようかと思ったが、精神を患っている妻の安静を思ってやめておいた。200年に一度の大流星群だったそうだ。もし見せてあげていたら妻はとても喜んだにちがいない。

 これからは、澄み渡った星のきれいな夜には、妻をベランダに誘って、流れ星を探してみようと思う。そのときには、聖子さんのように「星よ流れて」とお願いするつもりだ。でも願い事は違う。遠くにいる恋人に心が通じるように、ではない。

 ボロボロに傷ついて、いつ壊れてしまってもおかしくない私たち夫婦の絆が、いつまでも続きますように。妻の精神が癒されるときが来ますように。そんな願いをこめて、広大な夜空の中から、すぐに消えてしまう小さな流れ星を探してみたい。

 

2001年11月19日(月)

 「空にキスをするように」

 この曲が発売されて、今日でちょうど8年になる。発売当日CDショップで見つけてうれしかったことが、昨日のことのように思われる。

 人間は、いつも現実の恋愛はままならない。結婚しても困難なことばかりだ。そんなとき、私たちは、いつも空にむかってキスをしている。現実を超えた恋人の姿を、空の中に見つけているのだ。この曲は単なる三角関係の歌ではない。恋というものの、愛しても愛しても極めることのできない達成感のなさを、歌っているのだ。聖子さんの歌の中でも、ひときわ味わい深い歌だと思う。

 私は、93年の日大の学園祭の時に見た聖子さんの姿が忘れられない。あの時、曲の最後で、確かに聖子さんは、空にキスをしていた。

 

2001年11月6日(火)

 「弱い心」

 昨日、会社の同僚の女性たちの結婚祝いのパーティーに行った。幸せ一杯で希望に満ち溢れた彼女たちの顔を見ていると、「自分の人生って一体なんだろう」と思い、うつになってしまった。そのまま夜もぜんぜん眠れなかった。今日は会社へ行けるような状態ではなく、結局休んでしまった。

 久しぶりに病院へ行った。医師は優しく接してくれた。もらった薬で心が安らかになるといいのだが。いつになったら平静な心で毎日を過ごせるのだろうか。

 私は心が弱い。昔は聖子さんの歌の中にも、聴くことの苦手な歌がいくつかあった。まぶしい恋の歌の数々は、現実の自分とあまりにもギャップがあって、心に響いたから。いまでも、別の意味でそういう曲はある。「地上9mの宇宙」とか、「Baby Cry」とか。

 結局、心が弱すぎるんだ。

 

2001年10月16日(火)

 「星のいない週末」

 今夜は雨。通勤の帰りの車の中で、「星のいない週末」を聴いていた。

 妻と出会う前の私は、現実の恋愛に失敗してばかりで、いつも夢の中で愛を見つめていた。ちょうど歌の中で聖子さんが、星の図鑑を見つめていたように。

 妻と出会ってからの私の生活は、愛に包まれていた。この歌に歌われていた感情も、孤独だった青春の思い出として胸の中にしまっていた。

 しかし、妻が発狂してからというもの、妻と心が通じなくなって、また私は孤独になってしまった。今では夢の中で愛を探し続けている。外は雨。私は、胸の中にしまっておいた星の図鑑を取り出して、小さな青い星を見つめている。

 

2001年10月12日(金)

 「私のロビンフットさま」

 2〜3日前、TVで、昔活躍した歌手の人たちを呼んで来て、代表曲を歌わせ、カラオケ採点機の点数が80点以下だと、頭の上から白い粉が降ってきて真っ白になる、という番組をやっていた。とても楽しい番組だった。昔のタレントを呼んで来て「あの人は今」とかいう番組はよくあるが、人が落ち目になるのを見て喜ぶ根性が気に食わない。売れないタレントをひどい目に遭わせる番組もよくあるが、弱者をいじめているのが嫌いだ。私が見た番組も、そういう側面はあったが、それでも心から楽しめた。

 日野美歌さんが「氷雨」を歌ったり、クリスタルキングが「大都会」を歌ったり。一番ノリノリだったのが「私のロビンフットさま」を歌った榊原郁恵さんで、当時と全く同じ振り付けで歌ってくれた。今は家庭を持っている郁恵さんが、アイドル時代に若返った様子をみて、なんだかとてもうれしかった。いい歌は、いつだって人の心を動かせる。

 聖子さんも、年をとったからって、デビュー当時の歌を封印してしまう必要はない。どんどん歌ってしまおう。自分の年齢にあった曲を歌いたい気持ちはわかるし、曲があるのならいくらでも歌ってほしい。でも、別に新曲のリリースがないからと恥じる必要はない。発表済みの曲だけでも、聖子さんなら充分人を感動させることができるだろう。

 6月に馬場さんのライブにゲスト出演したときに、「マスカットの空」を歌ってたそうだ。聖子さんが昔の自分の曲を否定していないことがわかってうれしかった。年をとったから昔とそっくりそのままの気持ちで歌えないかもしれないけれど、いつまでも変わらない歌の持つ力を、私たちに見せつけてほしい。

 

2001年9月23日(日)

 「一緒にいよう」

 妻と和解した。

 頭の中では妻と別れなくてはならないとわかっていても、心の中ではどうしても妻への思いを断ち切れなかった。葛藤のあまり体がおかしくなり、会社へいっても寝こんでばかりで仕事にならないような状況だった。もう和解しないと、どうしようもない状況だった。

 妻への思いを断ち切れなかったのは、私が聖子さんの歌を愛していたからだ。聖子さんの歌を聴いていると、妻への愛情が燃え上がってしまう。恋の歌を聴けば妻との楽しかった思い出がよみがえり、別れの歌を聴けば切なさが心にしみて、どうしても別れたくないと思ってしまう。

 これからは、たとえ精神病の妻であっても、ずっと一緒に暮らすつもりだ。先行き不安なことばかりだけれど、聖子さんの歌を、自分の愛情を、信じて生きてゆきたい。不安を打ち消すように「一緒にいよう」のメロディーが、心の中を流れる。

 ---  一緒にいようよ もっともっと二人で  ---

 

2001年9月11日(火)

 「スレンダー」

 前の日記で「聖子さんは美しさへのこだわりがないのでは」と書いてしまった。でも、聖子さんがこだわりを持っている点がひとつある。それは、スレンダーな体型だ。

 改めて言うまでもないが、CRYSTALのジャケットの写真は、聖子さんのボディラインがくっきり浮かび上がっていて、とても魅力的だ。それからVOICEのジャケットの裏側の写真も良い。シビレてしまう。

 これらの聖子さんの写真をみると、結婚したころの妻のことを思い出す。私の妻も、とてもスレンダーだった。身長も体重も同じくらい。そっくりの体型だった。彼女の姉は、加藤いづみさんにうりふたつだったが、私が結婚したのは、聖子さんとそっくりの体型の、ちょっとやんちゃな感じのする、今の妻だった。

 最近の聖子さんは、どんな体型なんだろうか。6月2日のライブの写真では、今ひとつよくわからない。

 

2001年9月6日(木)

 「美しさへのこだわり」

 加藤いづみさんが、アブスライド(腹筋マシン)を購入したそうだ。33歳にして、あのスタイル、あの美しさを保っているのは、相当なこだわりを持ち、努力しているからだろう。

 それに対して、聖子さんは、昔から美しさへのこだわりを、持っていないような気がする。自分の本当の美しさに気づいていないのだ。それが、自分を傷つける方向へ向いていってしまう。頻繁にヘアスタイルを変えてみたり、ヘソを出してみたり、Our Songのころのような、だれが見ても異様な姿になってみたり。

 聖子さんは、攻撃的な性格であるからこそ、逆に、自分の自信のないところに目が向き、自分を責め、自分を傷つけてしまうのではないだろうか。現在の活動の停滞も、聖子さんのそんなところに原因があるような気がしてならない。

 聖子さん、自分の本当の美しさに気づいてください。もっと自分に自信を持ってください。こだわりを持って、自分の美しさ、自分の音楽を磨いてください。そうすれば、必ず、ふたたび、ステージの上に立てるはずです。

 

2001年9月4日(火)

 「Kentoさんへのメール」

Kentoさま

 聖子さんの中野サンプラザの絵を見て、当時のことを思い出しました。あの日ほど晴れがましい姿の聖子さんをみたことがありません。あの衣装は、ツアーを通しての衣装ではなく、中野サンプラザただ一度だけのための特別の衣装でした。テレビの収録(TBS)も来ていました。中野サンプラザの2階の半分くらいまで埋まっていました。聖子さんが光り輝いていた、本当に夢のようなコンサートでした。

 ツアー全部参加した人が、私も含めて、5〜6人いて、最終の中野サンプラザでは、すっかり仲良しになりました。あのとき出会った人たちと、もう一度会いたいです。

 中野サンプラザの様子が載っていた「GiRL POP vol.7」は、結婚するときに捨てました。もう二度と聖子さんのあの衣装を目にすることはないと思っていました。思いがけずKentoさんのおかげで当時の感動がよみがえってきました。ありがとうございました。

 

2001年7月14日(土)

 「ファンレター」

 先週の日曜日に聖子さんにファンレターを出した。一年ぶりだろうか。もっと頻繁に出したいところだが、聖子さんに変態ストーカーだと思われたくないので、頻度を抑えている。

 妻の発狂、家族離散という不幸に襲われて、今までわからなかった聖子さんの歌の切なさがわかりました、という内容だ。できるだけ怨念がこもらないように、さらりと書いたつもりだが、聖子さんはどう受け止めてくれただろうか。聖子さんの歌を心の糧にしているファンがひとりいます、ということが伝われば、それでよかったのだが。怨念を感じて不気味な手紙と思われたりしていないだろうか心配だ。

 聖子さんは、ファンレターに全部目を通して、大事に保管していると信じている。寂しいとき、不安なとき、何度も読み返して心の支えになっていればと願っている。

 もっと聖子さんにファンレターを送ることをみなさんに提案したい。私たちが聖子さんに自分の気持ちを伝える手段は、ファンレターしかないのだから。ファンレターが沢山届けば、もしかしたら、聖子さんも、もっとやる気を出してくれるかも知れない。そこまでいかなくても、必ず、聖子さんの心の支えになることだろう。

 ファンレターの最後に、ちょこっと、ここのホームページの宣伝もしておいた。できれば掲示板にメッセージが欲しいところだが、それは邪な考えというのものだろう。それよりも聖子さんファンが何人も集まっている様子をみてもらって、聖子さんがステージに立っていたときの感激を、少しでも思い出してもらえればと思っている。でも聖子さんのネット環境って一体どうなってるんだろう。

 

2001年7月7日(土)

 「七夕」

 なぜ、世の中に七夕にデートするという習慣がないのだろう。離れた男女が年に1度だけ逢うという伝説のお祭りなのに。多分、子供のイベント、もしくは夏祭り的な要素が強いからだろう。遠距離恋愛の二人が逢う日としては、「Wish」のようにクリスマスの方がふさわしいということになってしまう。聖子さんには、ぜひ七夕の歌を歌ってほしかった。

 私は、妻と交際中の頃、七夕デートをしたことがある。私たちは、そのときは遠距離恋愛だった。たまたま七夕の日に仕事で地元に帰ってくることがあって実現した。あの日に一緒にインドカレーを食べにいったことを、はっきりと覚えている。

 もう二度とは帰ってこない幸せだった日々の思い出。

 

2001年7月6日(金)

 「Rain Blossom」

 もうひとつ雨の歌を。

 昔は、この歌が今ひとつ気に入らなかった。気に入ってよく聴くようになったのは最近。やはり今の季節にぴったりだからか。それとも、この歌の心が、自分が離婚する時になって、やっとわかったからだろうか。

 雨に打たれても咲きつづける花びらは、愛情の名残。別れてしまった後でも、愛情にすがり付いていたいという願望。「Rain Blossom」は、別れた恋人たちの心を守ってくれる守り神。降り続く雨に滲んでゆく花に、時が流れ去るまで、私も守られていたい。今はただ、優しい雨に打たれて、ずぶぬれになるままに、いつまでもじっと花びらを見つめ続けてゆくことにしよう。

 

2001年6月28日(木)

 「雨が聴こえる」

 今は梅雨なので、「雨が聴こえる」を聴くことが多い。

 現在の私の生活は、いつ止むとも知れない土砂降りの状態。いつか、精神病の妻とも離婚して、毎日の重荷から開放される日が来るかもしれない。「忙しすぎた 毎日もやっと 今日で終わり 自由になれた」 でも、そのときが来ても、晴れ晴れしい気持ちではなく、土砂降りの雨が降り続いていることだろう。けれども、何も明るい根拠はないけれど、それはやがて優しい雨に変わって「見たことのない 知らない世界」が、私の前に開けてきそうな気がする。そう、私の本来の明るい人生に「きっと もうすぐ 帰ろう」

 この歌の持つ、重苦しい状態からの開放の予感が、私を引き付ける。

 

2001年6月27日(水)

 最後の「光る空につつまれて」

 裁判所からの通知が妻に届いて、完全に敵味方に別れる前に、最後のデートをしたいと思っていた。10日前の日曜日朝早く起きて、妻を連れて、遠州舞阪の海岸へ行ってきた。広大な砂浜。海に向かって左右にどこまでも続いている。松林から海岸線までは100メートル以上あるだろうか。空は真っ白に光り輝いていた。ここは妻が一番気に入っている場所。

 海に向かって歩いてゆくと、周りの景色は消え、砂浜と海と空しか目に入らない。6年前に初めて来たときは、砂の上にウミガメの絵を描いて、二人ではしゃいでいたものだ。今は、何も言わず、砂に腰掛けて、ただじっと沖を見つめていた。妻が涙を流しながら「私たち別れてしまうのね」とつぶやく。「そうだよ」と答えながら、私も涙を流していた。抱き寄せたかったけれど、もう気持ちのどこかが冷めてしまっていて、気が引けてしまった。

 二人が一番好きだった場所での最後のデート。最後の「光る空につつまれて」。

 

2001年6月20日(水)

 聖子さんの活動ぶりをみていると、まるで私の妻のようだ。活動再開をあきらめかけたころに、暑中見舞、クリスマスカード、ファンを呼ばないライブ。なかなか未練を断ち切れない。聖子さん自身も迷っているのか。

 私の妻は、精神病院に入退院を繰り返している状態だが、ときどき、まともなことを言っては、元の健康な生活に戻れるかのような期待を抱かせる。でも、普段は参議院選挙に立候補するだとか、アイドルになるためのオーディションを受けるだとか、家に仕掛けられている盗聴器を外すだとか、わけのわからないことばかり言って、私を失望させている。

 そんな妻との離婚裁判もいよいよ来月から開かれることになった。

 私たちが聖子さんと別れるときが来るとしたら、それは、いつ、どんなかたちでやってくるのだろう。なんだかそんなことを考えてしまう。

 

2001年5月26日(土)

 心労が重なり、私はすっかり疲れてしまった。毎日10時間くらい寝ないと体がだるくて動けない。先週は会社へ行くのがしんどくて、とうとう一日休んでしまった。これから、ずるずる休んでしまいそうで、自分でも心配だ。

 今日はずっと、妻と一緒に心中することを考えていた。ときどき我に帰り、そんなことはできない、妻と離婚するのが現状を打開する唯一の方法だと思い返す。

 それにしても、気が重すぎる。医者からもらった抗うつ剤と精神安定剤を飲む。この薬が効かなくなったとき、私は妻と一緒に死んでしまうのだろうか。自分の気持ちがコントロールがきかない状態なので、とても不安。

 あいかわらず、車の中では「Almost Blue」ばかりを聴いている。強いタバコ(赤キャビン)を吸いつづけ、「Almost Blue」を聴きつづけないと、心が不安になってどうしようもない。でも聖子さんの声を聴いても、心が安らぐどころか、地獄の牢屋に閉じ込められているような気分だ。

 ああ、今日は五島良子さんのライブがあったんだ。もうそんなことは、すっかり忘れていた。

 

2001年5月22日(火)

 妻は重い病気なので、物事の判断力がない。話し合いで離婚することが法的にできない。そこで妻を相手にいきなり離婚訴訟をおこすことになった。いつも一緒に生活してきた妻を被告にするなんて、とてもやりきれない。

 最近、車の中で、「Almost Blue」ばかりを、来る日も来る日もずっと聴いている。不治の病という深い海の底に沈んでしまった妻が、私のことを遠くから呼びつづけているようだ。

 

2001年4月30日(月)

 最近の私の行動や、掲示板への書きこみは常軌を逸していると自分でも思う。読んでくれている方の中には、いいかげんにしてくれと思っている人もいるかもしれない。心無い人に掲示板を荒らされてしまうかもしれない。(私自身が掲示板荒らしかもしれない) でも、書かずにはいられない。世の中には、こんな哀れなやつもいるのだと、笑って済ませてほしい。

 今日は、ひとりで、高速を飛ばして、私たちが新婚生活をおくった町に行ってきた。町の様子は少しずつ変わっていたけれども、妻が押しかけてきたアパート、私たちが一緒に暮らしたマンションは昔のままだった。タイムマシンに乗って、昔の幸せな時代に戻ってきた感じ。「ふたりの家に帰ってきたよ」と、ひとりごとでつぶやく。

 いちばん大好きな歌、「光る空につつまれて」を大音量で流しながら、ふたりが初めてキスを交わした岬に立ち寄ってみた。あの時ふたりが腰掛けた、砂浜へ続く階段に座りながら、ひとりでずっと海を見つめていた。曇り空。強い風を受けて海は荒れ狂っていた。何か大声で海に向かって叫ぼうとしたけれど、「さよなら、さよなら」と小声にしかならない。

 帰り道、「悲しいだけの二人じゃなくて」をずっと聞きつづけていた。胸の奥底に金属質の液体がたまっていった。

− 苦しいよ たくさんのふたりがいる −

 

2001年4月24日(火)

TAKAさんの掲示板への書きこみの返信

TAKAさま

 またひとり聖子さんファンのかたとお会いできてうれしいです。聖子さんも音楽活動の方はともかく、元気でいるそうなので何よりだと思っています。元気でいる限り、いつか必ず再会できる日がくると信じています。

 妻のこと心配していただいてありがとうございます。私の妻は、この世で最も悲惨な病気にとりつかれています。先日、主治医から、回復の見込みほとんどなしと告げられました。

 詳しい事情は話せませんが、私は、残された二人の子供の将来を考え、全く言葉では言い表せない、まさに断腸の思いで、妻と別れることを決意しました。

 互いに愛し合っているのに引き裂かれてゆく私たち夫婦。愛情がこんなに無力なものなのか、こんな理不尽な不幸がこの世にあってよいのかと、行き場のない怒りに震えています。

 私と妻の思い出が一杯ちりばめられた「佐藤聖子アンコール」も、このまま更新を停止し、聖子さんの思い出、妻の思い出とともに、永遠に封じ込めてしまおうかと考えています。

 それとも、心ならずも別れることになってしまった私の妻の思い出のために、そして、私たちの前から姿を消してしまった佐藤聖子さんの思い出のために、「佐藤聖子アンコール!」の運営を続けてゆくべきなのでしょうか。

いまは、無力感に打ちのめされて考えることができません。

 

2001年4月8日(日)

 しばらく、日記を休んでいた。この3ヶ月いろんなことがあって、なかなか、更新ができなかった。

 一番大変なのは、妻の病気の悪化だ。いま、私のすぐそばで、ずっと眠り続けている。薬を飲んで、昼ともなく、夜ともなく、眠り続けている。ときどき起き出しては、うわごとのようなことばかり言っている。先月はだいぶ回復して、一緒にスキーに連れていったのに、このありさまだ。妻が普通の生活ができるのは一体いつになることだろう。たぶん、聖子さんの復活の方が見込みもあるし、早いだろう。幼い子供二人を残されてお先真っ暗だ。もう少ししたら妻の病気をテーマにしたホームページを新たに開設しようかと思っている。

 自分の現在のこの状況を考えてみると、とても聖子さんに関する文章をのんびり書いているような場合ではない。なんで、こんな文章を書けるのだろうか。その理由は、過酷な現実から逃げているというわけではない。私が聖子さんにハマッていた時期と、妻に恋していた時期は、ほとんど同じ。私の妻への愛情は、聖子さんの歌の中に織り込められているのだ。だから、聖子さんについて語ると、困難な現実の中で忘れかけている妻への愛情を思い出す。愛情を思い出すことが、過酷な毎日を過ごしていく上で、この上もない励みになっている。

 むかし、ライブで聖子さんが、「カップルで来た人には、素敵なラブソングをいっぱい歌ってあげます」と言ってたが、聖子さんの歌は、今でも私たちの夫婦の絆を励まし続けている。

 そんな中、3月30日に近藤名奈さんの名古屋ライブに行ってきた。名奈さんのライブに参加したのは7年ぶりだった。レコード会社も事務所も辞めて、中野督夫さんのギター一本だけをバックに歌う名奈さん。ステージの上はさみしい感じだったが、会場はぎっしりとファンで埋まっていた。名奈さんの美しい声は、むかしのよりも、いっそう磨きがかかっていた。

 名奈さんと比べて、聖子さんは事務所のバックアップがあるだけ恵まれている。と思うのが普通だけれど、事務所の存在がかえって聖子さんの活動に足かせをはめているのではないだろうか。いや、名奈さんと比べるのはやっぱりよしておこう。

 

2001年1月9日(火)

 仕事の書類を見つけるために、書類のつまったダンボール箱を整理していたら、妻に捨てられたとばかり思っていた聖子さんの直筆サインがでてきた。たった一度だけ直接会って話をした聖子さん。そのときもらった思い出のサイン。本当にうれしかった。こんどこそ家宝として、妻に見つからないように大事に保管しておこう。

 サインの内容は何の変哲もない。

 ○○(私の名前)さんへ

 Seiko Sato

94. 4. 23

 

2001年1月8日(月)

 聖子さんが、活動を停止してしまうかもしれないと、最初に思ったのは、CRYSTALが発売されたとき。

 「彼女が唄い描いたすべてが 今、結実の瞬間(とき)を迎える。」という言葉が、最後のアルバムであることを暗示しているようで、とてもいやだった。残念ながら、その心配は、当たってしまったようだ。

 もうそれから5年以上たつ。なぜ5年も辛抱できているのだろうか。こんなホームページなんかやめて、もっと魅力的な歌手の応援をすればいいのに。

 ここまで来れば、歌手佐藤聖子ではなく、ひとりの女性としての聖子さんを応援するという思いがなければ、とてもファンをやっていけない。 

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