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聖子さん日記2002

 

2002年10月19日(土)

「忙しい毎日」

 最近、社会復帰を目指して毎日忙しい。自宅から会社まで自動車なしで(薬の副作用のため運転不可能)通勤する練習。仕事のシミュレーションとして夕方までの図書館での勉強。とにかく暇がない。

 聖子さんのことがまったく頭に浮かばない忙しい日々。たまには良いのかもしれない。

 

2002年9月26日(木)

「聖子さんはいつまでも」

 昨日、久しぶりに「空にキスをするように」と「Jasmine」のビデオクリップを見た。子供っぽい女の子から大人の女性へと変貌してゆく、この頃の姿が一番私は気に入っている。そしてその輝きは私がビデオクリップをもっている限り永遠だ。

 アルバムでも同じようなことが言える。聖子さんが残した名作の数々、例えば、「Season」の3曲目に「Jasmine」があって、それを私たちがいつでも見ることができるということは、いつまで経っても変わらない。

 聖子さんの最近の動向も気になるが、いまは、聖子さんの一挙一動に一喜一憂するよりも、輝くような聖子さんの作品群をいつまでも楽しんでいたい。

 ちょうど私が、もう帰ってこない元気で美しかったころの妻の姿を思い出すように。

 

2002年9月18日(水)

「技術を超えた表現力」

 みなさんは、もう日本フラメンコ協会のホームページをご覧になっただろうか。7月に聖子さんが出演した新人コンクールの講評が出ている。聖子さんは惜しくも奨励賞を逃がしたのだが、2人の審査員が聖子さんの踊りに関して、興味深いコメントを残している。

(正確な引用ではないが)「内なる霊に語りかけている」「惜しくも奨励賞を逃がした。未熟な点もあるが、ほとんどの踊り手が忘れてしまっている大事な何かを持っている」これらのコメントから聖子さんの表現力に富む踊りを想像することができる。技術的にはいま一つだが。

 聖子さんが盛んにライブをやっていたころ、あるライターがこういう表現をしていた。「佐藤聖子はそんなに歌はうまくない。顔もそんなに良くない。でも佐藤聖子には華がある。大輪の花が開くのを僕は感じてしまった。

 歌をやっても、踊りをやってもなんだがコメントが似ていないか。聖子さんは子供の頃からテレビに出ていた。ドラマにも出た。だから表現者としての力は十分に持ちあわせている。それが歌やフラメンコをやった場合、最初のうちは、表現力に技術力がついてゆかないという話になる。

歌手時代の後期の聖子さんはこの点を克服して、技術的にも十分な力をつけていたように思う。それが活動休眠状態になってしまって、私達は悔しい。聖子さん、フラメンコも良いが歌も忘れないようにしてほしい。
 

2002年9月17日(火)

「老けた聖子さん」

 3月28日の赤坂LOVEのライブに行ってからずっと書こうか書くまいか迷っていたことだが、書くことにする。聖子さんは老けた。馬場さんのHPにある3月28日の写真と初期のCDジャケットの写真を見比べてほしい。ライブに行かなかった人にもよく分かるはずだ。

 私は特に6年間も顔を見ていなかったのでとくにそう感じるのだろう。聖子さんも32歳になるので当たり前といえばあたりまえだ。ファンである自分も年をとって周りからおじさんと言われるようになったのだから。

 ただやはり残念。聖子さんだけは、いつまでも若々しくいて欲しかった。そういう人はたくさんいる。私の妻も聖子さんと同じ年頃だが、子供を産んで太った以外はそんなに老けていない。もっとも聖子さんが太っていたらもっと衝撃だ。年をとるのは仕方がないので、それ相応の年の取り方があるはずだ。もっと研究してほしい。といっても無理だろう。

 老けることが悪いことだけと限らない。昔出せなかった、30歳を迎えた女性だけが、出せる美しい声を聖子さんは出していた。「昔よりも声が良くなった」という人がいたのはそのせいだと思う。やっと聖子さんも、本当に女の美しい声が出せる年齢になったのだ。

 これからは、聖子さんも年相応の歌を唄って欲しいと願う以外ない。CRYSTAL以降に出した曲はいまでも十分歌えるだろう。初期に聖子さんが作曲した曲もいけるかもしれない。「マスカットの空」を歌っていた。カバー曲も検討してほしいところだ。

 もっとも聖子さんが老けたというのは単に写真写りの問題かもしれない。ライブの途中ではそんなことを感じなかった。ライブが終わってから一対一で向かい合った時もそんなに老けて見えなかった。昔のぞっとするような色気は感じなかったけれど。老けたと思ったのは気のせいか。

 私も含めてファンも一緒に年をとっているので、女性が老けることにそれほど抵抗を感じなくなっているはずだ。私達は聖子さんと一緒に年を取りながら、いつまでも聖子さんの歌声を待ち続けている。

 

2002年9月10日(火)

「わからない歌」

 歌手、題名のわからない良い歌は人を不安に陥れる。歌手、題名を知ろうと一生懸命探しても分かることは少ない。これまで佐藤聖子さんの曲のことについて、掲示板に聞いてきた人が何人かいた。「Heartbeats groove」のことを聞いてきた人がいたが、その人は無事解決していった。こないだ「空にキスをするように」のことを聞いてきた人がいたが解決するだろうか。思い出の歌の題名が「空にキスをするように」らしいのだが、どうも歌っているのは聖子さんではなさそうだ。どうしたものだろうか。

 私のカンではここでは問題は解決しない。たしか昔「空にキスをしてみるように」とか「空にキスをしているように」とか紛らわしい題名の曲があったような覚えがあるからだ。そこで「空にキスを」でgoogle検索かけてみたが何も引っかからなかった。やはり私の勘違いだろうか。

 私は今日わからなかった歌の題名・歌手が分かって嬉しかった。こないだ相変わらずうつ状態で凹んでいる私にKentoさんが「自由に生きるやりかたなんて百通りもあるさ」という歌があるよと励ましてくれたのだが、何の歌か分からず、後味が悪かった。それが今日突然分かった。

 私は最近、病院のデイケアに通っている。そこでこの文章を打っている私の横で、おばさんがギター片手に「自由に生きるやりかたなんて百通りもあるさ」と歌いだしたのだった。びっくりした。結局それは浜田省吾「風を通して」だとわかった。なにかすごく安心した気分。

 こんな出来事があると結局歌って出会いがすべてだとつくづく思う。私達と聖子さんが出会ったことにしても。

 

2002年9月9日(月)

 「ライブ発起人会」

ライブ発起人会を作ったのはずいぶん前の話になる。活動が停滞している間に、3月28日に赤坂LOVEで聖子さんのライブは実現してしまった。発起人会のこれまでの成果としては発起人会の名簿を直接聖子さんに手渡したという、ただそれだけだ。

 ライブ発起人会のあり方について現在悩んでいる。ライブもとにかく実現してしまったし、なにしろ活動の中心となるべき私がまったくどうしようもない状態になっているからだ。昨年から体調を本格的に崩し、今年2月には入院。7月に退院したものの会社を休職し、傷病手当金でなんとか食いつないでいる。貯金も使い果たし、活動のための体力も資金も全くない状態だ。

 それでも、ライブ発起人会の活動はつづけていかねばならないと思っている。3月28日に赤坂LOVEで聖子さんが今後のライブ活動について心許ない発言をしていたからだ。最悪の場合、赤坂LOVEの活動を最後に、ライブ活動が途絶えてしまうことも考えられる。そのときのために発起人会の存在は不可欠だろう。

 何にしても、私が今のような状態では何も始まらない。聖子さんの音楽活動全体の状況を見守りつつ、私も早く体調を戻して活動資金を蓄え、聖子さんに働きかけをしてゆきたい。みなさんも何かよいアイデアがあればぜひ教えていただきたい。

 

2002年9月5日(木)

 「空白の時間」

 3月28日に赤坂LOVEでやったライブの興奮がいまだ冷めやらない。なにしろ聖子さんがステージの前面に出てきて歌ったのは何年かぶりだったのだから。私は6年も聖子さんを見ていなかったのだから無理はない。でも冷静に考えてみれば、あれから空白の時間が流れている。

 流れてくるのはフラメンコ情報ばかりだ。音楽活動の方はゼロ。赤坂LOVEのMCでも音楽活動をやっているそぶりも見せなかった。ただ実際にライブに出たことで、ライブをやる気は認めてあげたい。だから、この空白の時間は、たまにしかないひとつひとつのライブを大切にやるためのかけがえのない時間だと思ってあげることにしよう。

 実際問題、人間関係はつながっているものの、音楽業界を離れた聖子さんが、学芸会的にライブを行うのは、年1〜2回が限界だと思うし、それで十分だ。願わくばこれから冬場にかけて「Wish」「エメラルド」「Almost Blue」などを演奏するライブを開催してくれたら、どんなに素敵なことだろう。

 私も、現在、うつ病で休職し、私生活では空白の時間を過ごしている。空白の時間を過ごしたことのない人にはわからないかもしれないが、人生の空白とはなかなか簡単に塗りつぶせるものではない。

 

2002年9月3日(火)

 「フラメンコ」

 聖子さんのライブを初めて見たとき、はっとしたことがある。体を回転する動きがとても滑らかで、素人離れしたものを感じた。かといって他の動作はそれほど目立つものが無く、不思議に思っていた。「空にキスをするように」のPVをみても、顕著に感じられることだ。

 比較的最近まで私はその理由を知らなかった。聖子さんがフラメンコを習っていたとは。フラメンコはきちんとしたのを見たことがないので想像するしかないが、あの体の回転は、まさにフラメンコによるものだろう。私はフラメンコターンと呼んでいる。

 聖子さんは、最近音楽活動ほとんどなしのまま、フラメンコに本腰を入れているという。泥まみれの音楽活動を続けてしまうより、趣味に打ち込むのは良いことのように思われる。これは別にいやみでもなく、聖子さんと同じような境遇で泥まみれの音楽活動を続けている人たちの様子をみると、そういう結論にならざるを得ない。CDが何枚売れたとか俗世間のことに惑わされることもなく、聖子さんには優雅にフラメンコを舞っていてほしいものだ。

 聖子さんの音楽活動は、ときおり小さなライブハウスで会場一杯のファンに祝福されて元気な姿を見せてくれるだけでよいのではないか。もしかしたら新譜などもインディーズで出ることがあったら最高なんじゃないかと思っている。そういう点で3月28日に赤坂LOVEでやったライブはなかなかいい線をいっていた。

 

2002年8月29日(水)

 「エメラルド」

 いつ、どこで見たのか忘れてしまったので恐縮だが、1月5日行われるはずだったライブの進行表をみたことがある。それによれば、第一曲目に演奏されるはずだった曲は「エメラルド」だった。3月28日に実際に行われたライブでは、この曲はピーターパンのミュージカルの曲「ネバーランド」に置き換わっていた。

 私はとても残念だ。「エメラルド」を小さなライブハウスで聴くのが長年の夢だったのに。3月28日は千載一遇の機会だったのに。きっと聖子さんの自信の無さがこの名曲を歌わせることを躊躇させたに違いない。長い間ステージに立っていないということを考えればやむを得ないかもしれないが。歳月は人を臆病にさせるのか。

 3月28日の聖子さんは声に30代独特の艶があった。部分的には力が落ちたという人もいた。たしかにそんな感じもあった。でも聖子さんの声は熟成されていた。前より良くなったという人もいた。

 その声でぜひ「エメラルド」を聞かせてほしかった。私の宿願はいまだ果たされずにいる。

 

2002年8月28日(水)

 「BABY CRY」

 昨日、久しぶりに職場に足を運んでみた。前回行ったときは久しぶりにみんなの顔を見て安心したものだが、今回は違った。半年に一度の成果発表会が偶然開かれていたからだ。半年間のノルマがこれだけで、それに対してわたしはこれだけの成果を上げましたというのを発表する会だ。私は逃げるようにして職場を去った。そして自宅に帰ってからも死ぬ死ぬとわめき散らし、5錠の睡眠薬の力を借りて眠るまで、自殺したいという衝動が収まらなかった。

 冷静に考えてみれば、休んでいた私がノルマの達成度を問われるはずもなく、ひとごとのように発表を聞いていればよいように思える。他の同僚のほうが仕事ができているのは当然だが、自分は病気だから仕方ない。その辺の割りきりが今ひとつできていないのだろうか。ノルマに追われ仕事をしていたときの焦燥感がまだ抜けていなくて、私に自殺のことを考えさせるのだろうが。いまだに死神にとりつかれているとしか思えない。

 聖子さんにも自殺の歌がひとつだけある。「BABY CRY」だ。この歌を失恋→自殺と表面的にみんな捉えているのではないだろうか。自殺とはそんなに単純なものではない。悲しみから自殺までのあいだには、死神にとりつかれることが必要だ。つまり悲しみ→死神→自殺だ。だから「BABY CRY」は決して失恋の歌ではない。死神にとりつかれた断末魔の心の叫びなのだ。

 「BABY CRY」が自殺の歌であることについて、歌自体を否定したい気持ちは強い。でも「BABY CRY」は、死神にとりつかれているという点で、現在の私の心に近いものがある。「BABY CRY」は今の私の出発点だ。ここから出発し、元の健康な心の世界に戻りたいと願っている。今日もまた「BABY CRY」を聴くことにしよう。

 

2002年8月21日(水)

 「星降る夜に」

 退院して精神的に安定してきた私だが、いま猛烈な不眠症に襲われている。4種類の睡眠薬を飲んでいるが、今夜も全く眠れない。月曜日に新たな睡眠薬を処方してもらったばかりなのに。このまま再び精神が破壊されてしまいそうで不安。

 こんな夜に必ず思い出すのが「星降る夜に」。初めて聖子さんを見たライブの後、帰りの夜行バスのなかでずっと聴きつづけていた。不眠の夜も聖子さんがあの歌を歌いながら見守ってくれているような気がして心強い感じがする。不眠の夜は死神の誘惑などを受けてしまう私だが、聖子さんの歌が私を現世につなぎとめてくれているような気がする。

 

2002年8月19日(月)

 「花火」

 5月上旬に職場に復帰した私はわずか4日間でうつ状態になり、自殺を企て、翌日精神病院に再入院した。入院後もさらに自殺を企て、独房に12日間監禁された。7月下旬に退院して故郷で療養したものの、自殺さわぎがなかなか収まらなかった。現在は自宅に戻り、わりと安定した状態にある。

 5ヶ月の間の状況を簡単に書くとこのようになるだろうか。まだあまり細かいことは書く気分になれない。今後すこしづつ書いて行くことにする。今は聖子さんに対する簡単な感想を書いて、普段の聖子さん日記の気分に戻りたい。

 退院して数日後、花火を見に行った。打ち上げている近くは混雑しているので、3キロほど離れた丘から見ることにした。これくらいの距離で見る花火が一番美しいと私は思っている。私が到着したときには、花火はすでに始まっていた。美しいのだが、次から次へと繰り出される花火に、ややマンネリズムを私は感じていた。

 結局、最後まで花火は見なかった。花火が最後に終わるのを見てしまうのが怖かったから。終わってしまったあとの静寂に耐え切れそうになかったから。

 私は、佐藤聖子という花火をいつまで見つめていていいのか迷っている。

 

2002年3月15日(金)

 「Jasmineの花」

 精神病院から退院して10日。気持ちが不安定で経過は悪い。激うつに落ち込んで死ぬ死ぬと絶叫してみたり、あたりの壁や物を蹴り倒すなど暴れてみたり。一昨日には、主治医から再入院を命じられてしまった。でも私は断った。いま再入院すると、早期の職場復帰も難しくなるし、28日のライブには確実に行けない。そこで、もう一週間、自宅療養で様子をみることになった。これからいったいどうなるのだろう。すでに4月職場復帰は難しくなった。来週水曜日に主治医の再入院の判断が出れば、28日のライブに行くことは不可能だ。

 しかし、昨日あたりから気分が良い。抗うつ剤のトレドミンがようやく効き始めたのだろうか。花屋に行ってみたら早くもJasmineの花が咲き始めていた。聖子さんが現れる日も近い。このまま調子が良くなって、28日のライブも4月からの社会復帰もうまくいけばいいなと思っている私だった。

 ところで17日のフラメンコの公演、だれか行って、聖子さんがいるか確かめてほしい。

 

2002年2月28日(木)

 「入院3週間」

 入院して3週間、自殺したいという気持ちは薄れてきた。薬はかなり強めのものを投与されているらしい。いずれ退院したら薬自慢のページでも作りたい。退院も近いことだろう。だが、その先の社会復帰となるとまだまだ自信がない。自殺願望はなくなったものの、暗い気持ちはそのまま。薬でフラフラした今の状態で毎日8時間労働できるわけがない。社会復帰に対する不安は増すばかりだ。

 抗うつ剤の効き目にも今一つ納得いかない。爆発的なうつ状態に陥ることはなくなったものの、いつも平坦に軽いうつ状態のまま。面白そうなことがあって、まわりのみんなが笑っていても、私は笑うことができない。せめてもう少し、軽やかな気持ちになりたいところだ。薬を飲み続けるしかない。SNRIを出してもらったが、私にはぜんぜん効かなかった。私に合った副作用が少なくて飲みやすい薬はないだろうか。

 閉鎖病棟での生活にもすっかり飽きてきた。というより、刑務所一歩手前。禁固刑。どこに行く自由もない。何もすることがない。こうしてパソコンに触れることができるのも、週1回1時間だけ。まわりの人たちは分裂病気味の人が多く、そういう人たちに限って、大声で自分の妄想をぶちまけるものだから、妻のことを思い出して、ますます気が重くなる。

 先日、一時帰宅したが、「佐藤聖子アンコール!」の荒れ方はひどい。掲示板には、たくさんの励ましの言葉をいただいて感謝している。しかし、アクセス数の低下は目を被うものがある。果たして退院しても元の状態に戻るかどうか不安。管理人が精神病ということで、引いてしまう人がきっといるだろう。それはそれで仕方ないと思っている。でもやっぱり堂々と「精神病院に入院します」と書いてしまったのはまずかったかも。1ヶ月程度なら、仕事が多忙だとか、いろいろ理由をつけて黙って置いてもよかったのに。少し後悔している。

 今回は聖子さんの話題がなくて済まない。だから最後に少しだけつけ加えておく。現在SONYのDISKMANで聖子さんの曲を聴いているが、これがまったくおかしく聴こえる。少しテンポが速くて全く合っていないというか、低音高音のバランスもおかしな感じ。みなさんも、たまにはいろんな機器でCDを聴き比べてチェックしてみるといいだろう。
(この文章は病院備え付けのパソコンで打った)

 

2002年2月17日(土)

「冬の木」

 精神病院に入院して10日経つ。任意入院なのだが、私は自殺の恐れがあるので閉鎖病棟に収容された。閉鎖病棟は、物品の管理が厳しく、丹念にひとつひとつチェックされる。刃物はもちろん金属製品など、凶器になる危険性のあるものは持ち込みが許されない。なにしろ病棟の中は、気の狂った人ばかり。何が起こってもおかしくはない。幸い、私は気の狂った人の実例を自分の妻で、いやと言うほど見ている。狂った人を見ても今さら驚かない。ただ自分がその仲間入りをするとは思わなかった。

 入院生活は窮屈で単調でヒマだ。朝起きてラジオ体操。三度の食事、投薬、検温。それ以外にやることはない。やりたいこと何でもやればいいじゃないかと思うのかもしれないが、閉鎖病棟では、たいていのことは、看護婦さんの許可なしにはできない。娯楽は囲碁、将棋、オセロ、トランプ、麻雀、卓球などあるのだが、相手が弱すぎたり、メンバーがそろわなかったりで、なかなかやる機会に恵まれない。読書は決められた本の中から週5冊まで。持ち込めるCDは5枚まで。タバコは毎日1箱。毎日2箱吸っていた私にとっては辛い。

 このようにヒマだと、私の考えはやはり自殺することに向いてしまう。気が重くて、自殺の決意を告げる電話をあちこちにかけた。症状が収まらないので、より強い薬をどんどん投与されている。果たして社会復帰できるのか不安だ。

 一緒に入院している人たちは、意外とおとなしい。騒いだりすることはほとんどない。言葉や態度の端々におかしなところはあっても、基本的に普通の人だ。同室の人はアル中で、手の震えが止まらず、麻雀の時、牌が積めない。

 持ち込んだCDだが、今回は聖子さんのCDは一枚だけ。貴重品の聖子さんのCDを精神病院の中のごたごたで傷つけたくない。それに普段、聖子さんの曲ばかり聞き込んでいるのとは違った環境に自分を置きたかった。そこで、今回は加藤いづみさんの後期のCDを中心に聞き込むことにした。

 持ってきたCD。「SATELLITE☆S」「skinny」(これは加藤いづみさんの直筆サイン入り。貴重品)「French kiss」「bossa」「Sad beauty」

 やはり、この中では、「SATELLITE☆S」が心の支えになっている。「空にキスをするように」を1曲だけリピートでかけ続けることが多い。加藤いづみさんの曲は、どちらかというと気晴らしにかけている感じ。

 入院中、心理テストというのがあった。「実のなる木の絵を描いてください」というのが内容だ。それを聞いて私の心の中には、すぐ一本の木の姿が頭の中に浮かんだ。葉が一枚もなく、細かい枝をたくさん張っている冬の木だ。すぐさま、その絵を描いて提出した。果たして私の心は専門家によってどのように分析されたのだろうか。

 聖子さんが子供のころ、初めて作曲した曲は「冬の木」であったと聞く。私のイメージした木と同じだったのか。「冬の木」が心理学的にどんな意味があるのか、また聞いてみたい。
(この文章は病院備え付けのパソコンで打った)

 

2002年2月7日(水)

 「精神病院入院」

 ついに、私も精神病院に入院することになった。このままでは、近いうちに自殺してしまいそうな予感がしたからだ。それを防ぐためには、絶対に自殺できない場所に行くしかない。それは精神病院以外にありえない。仕事のことを完全に忘れ、普通の生活では副作用が強すぎて口にすることのできない強い薬を飲み、ただひたすらに頭の中を空っぽにして、規則正しい生活をすれば、健康な自分に再び近づけるような気がする。

 精神病院に入院することによって、いろいろ偏見の目で見られることはわかっている。でも、今まで通り、私は佐藤聖子さんを断固応援していきたい。聖子さんも私のような精神病患者に応援されて迷惑かもしれない。聖子さんに対して済まないと思っている。

 「佐藤聖子アンコール!」の更新はしばらくお休みにする。でも退院したら必ず再開する。そんなに何ヶ月もかからないと思われるので、みなさん時々見に来てほしい。もしかしたら週1回病院を抜けれるかもしれないので、そのときには更新もしていきたい。

 

2002年2月2日(土)

 「ライブの力」

 木曜日、うつ病が原因で仕事のプロジェクトのリーダーから外された。もう、まったく何もやる気がしない。その日は15:30で早退。次の金曜日も仕事をする気力が湧かず、会社を休んだ。月曜日に精神科医の診察を受けてから、会社に行こうと思っている。薬を多くしたり、しばらく会社を休んだりしたほうがいいかもしれない。ときどき死にたくなるので、入院の可能性もある。

 金曜日の夜は、「TOKYO ACOUSTIC NITE」に参加。ライブに参加することで、少しでも気が紛れればいい。ちょうどいいタイミングで開催されたものだ。出演者は 守屋里衣奈さん、奥井亜紀さん、近藤名奈さん。会場は程よい込み具合で、私は大好きなタバコをふかしながら、至福の時間に入った。

 守屋里衣奈さんは、わりと美形。高揚した時の声の出方が良い。でも、そのほかのところの言葉の出し方が流しているようで、あまり気に入らない。奥井亜紀さんのライブは、いつもと同じ調子。私は関西出身だが、あの大阪ノリには、ついてゆけない。「みんな元気だよね。元気だからライブに来てるんだよね」 ぜんぜん違うって。曲の作り方にしっかりとしたスタイルがあるようだが、肝心の声が好きなタイプではない。

 近藤名奈さんを見るのは、活動再開以後では、昨年の春、夏以来、3回目。今回は、前の2回より明らかに安定感があった。かなりライブ慣れしてきた様子。声に張りが出てきた感じ。「愛の名前」を聴いたときには頭がしびれた。慣れないはずの弾き語りにも挑戦していた。そこまで無理しなくともと思うのだが、中野さんと二人でやるスタイルに限界を感じてのことに違いない。名奈さんの性格による部分も大きいだろう。初期のころからずっと思っていることだが、名奈さんは何か自分の殻を破ろうと、いつももがいているという印象がある。でも名奈さんは、いったいそれで何を得ることができたのだろう。

 ライブが終わって、グッズやCDの発売が始まった。アーチストみずから売り子となって商品を販売していた。私はそこで初めて名奈さんと直接話をすることができた。「名奈さん、また名古屋にも来てくださいね」「ええ、そのときは、必ずあなたも来てくださいね」それだけの会話だったが感激した。名奈さんが私の出した一万円札のおつりを、一生懸命勘定してくれた様子も、なんだか申し訳ないような感じがして、印象に残っている。

 アーチストに直接ふれることのできるライブは、やはり素晴らしい。名奈さんのようにライブで着実に力をつけている人もいる。

 聖子さんのライブが実現する日をひたすら待ち続けることにしよう。

 

2002年1月29日(火)

 「声の調子」

 1月5日、聖子さんは、声が出なかったという。いったいどんな状態だったのかよくわからない。

 「After Blue」の収録の際にも、声が出なくなって、困ってしまって、どこかに隠れて泣いたという話を聞いたような気がする。それに、初期のころのライブの出来のバラツキ。不出来のときは、信じたくないような声を出していた。聖子さんはノドが弱いのだろうか。自分でも、それがよくわかっていて、少しでもノドに不安のあるときは出演しないということになったのかもしれない。

 私の弟は、某放送局のアナウンサーをしている。よく全国TVに出ているので、名前を出せば知っている人もいるだろう。ファンレターなども来るらしい。ノドに頼った商売をしているわけだが、声の調子が出なくて仕事にならなかったという話を一度も聞いたことがない。それでも、声の調子を出すために、いろいろと注意を払っているらしい。普段、私としゃべっている声と、TVに出ている声は、ぜんぜん違うから驚きだ。プロの声作りは、素人の想像を絶するものらしい。

 歌手とアナウンサーでは、声を酷使する度合いが違うとは思うが、プロの声を作るという点は同じ。聖子さんはそこがどうも弱いらしい。以前から指摘されていることだが、歌手としての弱点と言えるだろう。

 しかし、私の聖子さんのライブを期待する気持ちは変わらない。なぜなら、声の調子の良いときの天にも昇るような気持ちになる素晴らしいライブを何回も経験しているから。聖子さんのライブに完璧は求めない。3回ライブをやって、1回すばらしいライブがあれば、それでよいと思っている。

 それは、私が妻を愛する気持ちと同じ。精神病にかかって、いつもよい妻でいられるはずがない。調子の良いときの素晴らしい妻、美しい妻の姿だけを胸に抱いて、日々の生活を送っている。

 

2002年1月26日(土)

 「鬱に耐える歌」

 昨日、職場で、この一年間の成績査定の通知があった。自分の今までの評価の中では一番悪い。うつ病で満足に働けない身では、いたしかたないのかもしれない。

 そのあと、仕事のパーティーがあった。仕事で知らない人と話をするのは、かなり憂鬱だ。それでも我慢をしていた。しかし、そのうち胸がムカムカしてきた。トイレに駆け込んで、パーティーで食べたご馳走をみんな吐き出した。涙が出た。ロビーでタバコを2本吸って心を落ち着かせてから、何事もなかったかのように、会場へ戻った。

 帰りは3時間のバスの移動。もう完全なうつ状態になり、横に座った人とも一言も会話せず、うつむいていた。ときおり、窓の外の景色を見ていた。うつな気分が我慢できなくなり、私は、隣の人に聞こえないように小さな声で、「空にキスをするように」を歌い始めた。すこし落ち着いた。それからずっと帰りつくまでの間、私は聖子さんの歌を歌いつづけた。

 3時間で歌った歌。「空にキスをするように」「星降る夜に」「Jasmine」「愛は愛は愛は」「光る空につつまれて」「PAIN」「マスカットの空」「Almost Blue」「地上のShooting Star」「東京タワー」「エメラルド」「Heatbeats groove」「さよならがおしえてくれる」「降っても晴れても」「恋をするなら」「Wish」「21」「After Blue」「恋が風になって」「Slopeをこえて」等々。

 

2002年1月23日(水)

 「会員証」

 私の息子が「葉っぱのカードがあったよ」と言って、見せてくれたものがある。EVER GREEN会員証だ。妻に捨てられてなくなってしまったと思っていたが、まだ家の中にあったのだ。何年ぶりに見ることだろう。なつかしい。

 会員番号408番。こんなに番号が遅くなってしまったのは、ファンクラブができたときに入会するのをためらったからだ。ちょうど結婚したころで、妻がいるのにいつまでもファンをやるのは、良くないと思っていた。結局、入会したものの一年で辞めてしまった。あの生写真を送ってくるのが、いかにもオタク的で、妻の機嫌を損ねてしまったからだ。自分でもみっともないと思っていた。

 会員証が発見できたのは、自分が心を入れ換えて、ファンサイトを作ったりして、聖子さんの応援をやったのが理由であるかのように感じる。私が佐藤聖子ファンであることを、だれかに認めてもらったような気分だ。これで、むかしのような健やかな心に戻れればいいのに。

 今日の私は鬱で、会社からの帰り道、自殺する方法ばかり考えていた。家に帰ってから、料理している妻を見て、包丁をとりあげて無理心中しようかという衝動に駆られた。普段でも時々、車を運転しているとき、対向車線を猛スピードで走ってみたりすることもある。

 私が死ぬ前には、だれかに、このサイトのファイルを送って、ミラーサイトを作ってもらってから死のうかと思っている。あるいは、更新がしばらく途切れて、突然このサイトがなくなったら、私が自殺したものと思ってほしい。

 

2002年1月22日(火)

 「私の妻の方が美しい」

 こういうサイトをやっていると、ときどき次のような内容のメールが届くことがある。
「あなたは精神病になった奥様を愛する代わりに、佐藤聖子さんを応援していらしゃるのですね」
このサイトを見ている多くの人が感じていることかもしれない。

 だが、それは誤解だとはっきり言っておこう。

 最近、聖子さんのビデオを久しぶりに見る機会があった。ビデオで見る聖子さんの姿はどれも美しい。特にプロモーションビデオは、さまざまな角度から聖子さんの魅力を私たちに伝えてくれる。ライブで見る聖子さんも、かわいらしさ満点だ。私が本当に聖子さんの美しさをこれでもかと感じたのは、直接会ったとき。あの大きな目を見開いて私の目をじっと見つめてくれた、そのときの表情はずっと忘れることはできない。選ばれた人はやっぱり一般人とは全く違っていると、私はそのとき思った。

 しかし、最近改めてビデオを見て、私は確信した。私の妻の方が美しい。

 私の妻の身長・体重は、聖子さんとほぼ同じだ。でもスタイルが良い。まず足が長い。同じぐらいの身長のタレントたちの等身大写真の横に並んでも、足の長さでは負けたことがない。それから腰がくびれている。聖子さんもストイックなくびれ方をしているが、それよりも確実にくびれている。あの腰のくびれかたを初めて見たときは、本当にドキリとした。まずそこで最初に惚れたのだと思う。子供二人を産んで、今では少し太ってしまったが、子供を産む前は本当に素晴らしかった。それに顔の美しさ。かなり出っ歯なのだが、それは私の好みだ。私は気が強かったり、ボーイッシュな女性にあこがれてしまうのだが、そういうところも好みにぴったり。交際しだして、結婚一年目くらいまでは、妻の顔がかわいすぎて、真正面から見れないということもよくあった。

 私は、あくまでファンとして聖子さんを応援している。けっしてダメになってしまった妻の代わりではない。

 

2002年1月20日(日)

 「デビュー10周年」

 明日、1月21日をもって、聖子さんはデビュー10周年を迎える。デビューしたころの真っ黒な顔をしたボサボサ頭の女の子も、今では30歳。今、どんな気持ちで過ごしているのだろう。何はともあれ、おめでとうと言いたい。

 10年間もひとつの仕事を続けることは、それだけで、もう立派なキャリアといえるだろう。だれに対して自慢してよい。聖子さん自信を持ってください。

 10年間の足跡を振り返ってみる。最初の5年間の活発な活動。そして2年間のシングル3枚を出した控えめな活動。そして3年間の沈黙。徐々にフェイドアウトの方向へ向かっていることは確かだ。

 聖子さんが、これからどうするかは、聖子さんが決めること。聖子さんが一番幸せになれる道を選ぶことを、私は望んでいる。根性でがんばれとか、気合をいれて仕事をせよとは、私は言いたくない。聖子さんの心のままに何事も進めてゆけばよい。結婚引退するならそれでもよい。

 ただ、引退しないのなら、たまにはファンの前に顔を出してほしい。書き溜めた作品があるなら、それも披露してほしい。それだけなら、そんなに負担にならないはずだ。

 1・5のライブの件で、私は聖子さんのプロ意識が足りないと非難したが、これからは、もうそういうプロ意識すらも、邪魔なものかもしれない。気の向いたときにふらりと現れ、またどこかへ去って行く。そういうスタイルが聖子さんにふさわしいのかもしれない。

 最後に聖子さん10年間ありがとうと言いたい。私たちは、聖子さんの歌に支えられて毎日の生活を送ってきた。これからもそれは変わらないだろう。聖子さんが10年間でやり遂げた仕事は、いつまでも私たちの心の中に居座り続けている。

 

2002年1月18日(金)

 「仕事から外れること」

 私の職場の先輩が急病で入院した。脳神経がおかしくなって、眼球を動かすことができなくなった。原因不明の難病らしい。今日会社の帰り見舞いに行ったが、いつ治るかわからない恐怖におびえていた。自分の仕事や生活から突然切り離されることは、どれだけつらいことだろう。

 私は、今日上司に呼ばれて、今の業務から外れることを勧められた。私は今の仕事を進めている5人の中のリーダー格だ。他社との競争が熾烈で、受けるストレスの量は半端ではない。そのことを良く知っている上司は、私のうつ病が悪化するのを心配して、もっと気楽な仕事を勧めてくれた。正直ありがたかった。しかし、主な担当者である私抜きで仕事が進むはずがない。いったいどうなるのかは今は見極めがつかない。

 私は仕事から外されてしまうのだろうか。今日はそのことばかり考えていた。

 帰りの車の中で聖子さんの歌を聴きながら、聖子さんの仕事のことを考えてみた。聖子さんは、サラリーマンとは比較にならない厳しい競争の世界を生きていた。そして、あるとき仕事から外された。フォーライフの契約を切られ、CDを発表するあてが、まったくなくなってしまった。心の弱い私だったら、すっかりめげてしまうことだろう。それでも、聖子さんは決して歌手を辞めるとは言わない。それだけで立派だと思う。私たちは気楽に「ライブだけでもやれば?」とか、「インディーでがんばってる人もいるよ」とかいうが、そんなに簡単なことではないと思う。仕事を失った喪失感からは、そんなにすぐに立ち直れるはずがない。

 時は流れて行く。いままでの仕事のやりかたを全て失った聖子さんは、一人きりでの作品作りから始めて、自分なりの音楽のやり方を、徐々につかみ出していこうとしているのではないか。1・5ライブは、幻に終わったが、いままさに第一歩を踏み出そうとしているように思われる。

 

2002年1月15日(火)

 「良い夢は正夢」

 私は、うつ病が悪化した昨年夏ごろから、毎晩のように悪夢にうなされてきた。大抵は受験に落ちたり、仕事をクビになる夢だ。どうも悪夢というのは現実の心配事とは無縁のようだ。私の現実の心配事は、妻の精神病が再発しないだろうか。子供に遺伝しないだろうかといったことだが、妻についての悪夢は見ない。もう充分過酷な現実を見すぎているからだろうか。

 昨夜は、久々に良い夢を見た。私が重い病気にかかって死にそうになっている夢だ。夢の中で、私は、もう死ぬから看病しなくていいと言ってみたが、妻や子供たち、父母や兄弟たちが、みんなで一生懸命看病してくれて、最後には病気が治った。

 夢から覚めたとき、涙が止まらなかった。去年の夏以来、離婚裁判のゴタゴタで絶縁状態になっていた父に電話した。私が、うつ病で、満足に働けない状態にあることを告白した。父は、とにかく何も考えないで、しっかりと休養すること、困ったことがあったら、いつでも実家に帰ってきて相談することを勧めてくれた。感謝の気持ちとともに、夢が正夢であったことを知った。

 悪夢は逆夢。良い夢は正夢。今度見る良い夢は、聖子さんのライブの夢だったらいいと思う。

 

2002年1月12日(土)

 「21」

 私は年賀状が苦手だ。今年も一通も書かなかった。届いた年賀状も何十枚もあったが、まったく目を通していない。理由は、私の家庭が並外れて不幸だからだ。親戚や知り合いが、元気そうに挨拶をしてくると、まったく腹が立つ。人の家庭の事情を知らないのかもしれないが、腹が立つ。

 年賀状を見ただけでそうなのだから、ましてや書く気になんてなれない。「妻は妄想がひどく、精神病院に入退院を繰り返しています。昨年は離婚裁判をしました」「私もうつ病になり、会社で満足に働けなくなりました」とか、書けるわけがない。

 本当はそういう思いを断ち切って、淡々と年始の挨拶をするのが、いい年をした人間の態度だろう。「くやしい気持ちだけにしばられない自分」になれたら、とてもすばらしいことだろうとは思う。でも、私のような精神病の人間には、酷な話だ。

 今日は私は疲れており、妻に運転してもらったが、突然、強烈な不安に駆られ、車の窓ガラスを激しく肘で叩きつづけた。1分間くらい叩きつづけた。午後4時に家に帰るとすぐに不安を押さえる頓服薬を飲んで、午後9時まで眠り続けていた。

 

2002年1月8日(火)

 「つらいのは」

 衝撃のライブ中止事件から3日経った。ようやく冷静な気持ちになりつつある。

 掲示板などを見ていると、ファンのみんなは聖子さんに対して同情的だが、私はそうは思わない。厳しいことを言うが、今回は聖子さんのプロとしての意識が低かったのだと思っている。馬場さんのライブに遊びに行くような気分だったのではないか。自分のライブではないと思っていたのではないか。プロとしての自覚があれば、体調を万全にして風邪などひかなかったはずだ。聖子さん、もしこれがマローネではなくて、中止になると大量のチケットの払い戻しが発生する中野サンプラザのコンサートだったら、あなたは風邪をひきましたか?

 私は、とてもつらかった。これはただのライブではない。98年の「Our Song」キャンペーン以降、初めて聖子さんが自分の歌をファンの目の前で歌ってくれるチャンスだったのだ。私たちは聖子さんに会えなかった何年分もの思いを今回のライブに託していた。それが風邪ごときで台無しになってしまうなんて、やりきれない。

 でも幸いライブのチャンスは今回が最後ではない。聖子さんのやる気さえあれば何度でもある。できれば、2月か3月にでもやってほしいところだ。今回のことにめげて、やる気を失うことだけはないように。今回の事件があっても、聖子さんを応援する私たちの気持ちは、これっぽっちも変わらないのだから。

 冒頭で厳しいことを言ってしまったが、

 聖子さん、いいとこばかり、いつも見せられないよ。

 私たちは、もがいても音楽から逃げない聖子さんをしっかり見ているよ。

 CDを聴いているよ、いつも、会えない時間も。

 ライブがあれば、いつだって行きたいくらい、聖子さんがいいよ。

 つらいのは、私たちだけじゃない。聖子さんだけじゃない。おんなじ気持ち。

 

2002年1月1日(火)

 「バンダナ」

 一年の計は元旦にあるという。睡眠薬のおかげでよく眠れた私は、6時30分に起床。初日の出を見ようと、東の空を眺めてみた。曇っていて見えない。今年も良いことがなさそうな気がした。

 妻のいないときにしかできないことがある。私は、名古屋の大須というところにある電気街に出かけた。3年前に買ったパソコンが年末に故障した。ハードウェアのトラブルで復旧に2日を要した。おかげでオフ会の通知も遅れてしまった。もう今のパソコンの寿命も長くはないかもしれない。そう思って買い換えの心積りをしようと思った。

 私のパソコンはceleron300MHz、メモリ128MB、Windows98。サブノートで、どこへでも持ち運べる。静かなため眠っている妻のすぐそばで打つことも可能だ。今と同じような使用感で、WindowsXPの動く機種が欲しい。年末のトラブルでは、システムリソースの不足に悩まされた。システムリソースの存在しない完全32bitのOSに移行したい。そう思って機種を探したが、ろくなものがない。サブノートではCPUも500〜800MHzどまり、メモリは256MBが限界。WindowsXPは確かに動きそうだが、購買意欲は沸かなかった。いまのパソコンが壊れるまで使い続けよう。

 売り場をうろついていると、うるさい音が鳴り響いている。DVD付きパソコンでGLAYのビデオクリップが流れているのだ。じっと見ていると、ファンの女の子たちが手に手にGLAYの応援グッズを持っている。手作りのものもある。私は、それを見て突然、脳天を打たれたような衝撃を受けた。

 そうだ。1月5日に使う聖子さん応援グッズを何か用意しなければ。

 むかし、聖子さんのライブに参加する際には、私は必ず公式に発売されていた聖子さんバンダナを頭に巻いていた。あのバンダナは妻に見つかり捨てられてしまった。何か代わりのものはないだろうか。横断幕やのぼりは邪魔になってとんでもない。Tシャツは持ってないし、あったとしても季節的に無理だ。鉢巻も変だし。ここはひとつバンダナを自作するしかない。私は心に決めた。

 スーパーマーケットで手ごろな大きさの白い布を買い、そこにピンクと水色のマーカーで一面に「SEIKO SATO」の文字を書きなぐり埋め尽くした。一時間くらいかかった。頭に巻いて鏡を見てみると異様。恥ずかしい。とても外は歩けない。チンピラに因縁をつけられそうだ。

 でも、せっかく聖子さんを応援するんだ。人から白い目で見られてもいい。聖子さんに自分が精一杯応援していることをわかってほしい。そのためには、このバンダナで応援するしかない。うーん。当日までよく考えよう。

 もし、マローネで変な布を頭に巻いている男がいたら、そいつが私だと思ってほしい。

 

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